生命を延ばしているのは本当に「健康至上主義」でしょうか?──酒・農薬・食品添加物を「期待値」で考えてみる
近年、「〇〇は身体に悪い」「できるだけ自然なものを選ぶべきだ」といった言説を耳にする機会が増えております。
酒、炭水化物、農薬、食品添加物などは、とくに否定的に語られやすい対象ではないでしょうか。
しかし、ここで一度立ち止まり、次の点を考えてみたいと思います。
それらを避けることは、本当に人をより長く、より安全に生かす選択なのでしょうか。
1. 人間は、本来どのくらい生きる生き物なのでしょうか
まず、人間を哺乳類全体の中で俯瞰してみます。
- 多くの中型〜大型哺乳類:野生下でおおむね20〜40年程度
- チンパンジー・ゴリラ:約40〜50年
- ゾウ:約60〜70年
- 人間:自然条件下でも60年前後に到達可能
この比較から分かるように、人間は体格のわりに非常に長命な哺乳類です。
進化論的に見ますと、子を産み、育て、次世代へ知識や経験を引き継ぐ役割は、50〜60代までにほぼ果たされると考えられています。
それ以降の寿命については、自然選択の影響が弱まる、いわば「追加的な時間」と捉えることもできます。
2. 酒は身体に悪いと分かっていても、なぜ飲まれてきたのでしょうか
アルコールが健康に悪影響を及ぼすことは、現代の知見からも明らかです。
それにもかかわらず、酒が人類史を通じて飲み続けられてきたのには、明確な理由があります。
それは、「不衛生な生水を飲んで明日命を落とす」よりも、「酒による慢性的な負担を受けつつも50歳前後まで生きる」方が、現実的な期待値として高かったからです。
近代以前の都市や船上では、生水はしばしば致命的でした。
一方で、ビールやワインなどの発酵飲料は、
- 製造時に水を加熱(煮沸)している
- 発酵過程によって有害微生物が抑制される
- 保存中の再汚染が起こりにくい
といった特徴を持ち、結果として「酒は身体に負担をかけるが、水より安全」という逆転現象が存在していました。
酒は健康食品ではありませんが、当時においては生存確率を高める合理的な選択だったと言えます。
3. この構造は、農薬や食品添加物にも当てはまります
この「急性リスクと慢性リスクの比較」という考え方は、現代の農業や食品安全にも当てはまります。
反農薬主義や反添加物主義は、個人の価値観としては理解しやすいものです。
しかし、社会全体の視点では、その評価は変わってきます。
農薬や添加物が存在しなかった時代、人類を脅かしていた主なリスクは次のようなものでした。
- 害虫や病害による飢餓
- 食中毒
- カビ毒(天然由来ですが、強い発がん性を持ちます)
農薬は単なる「便利な化学物質」ではなく、
収穫量を安定させ、カビ毒を抑え、人を短期間で死に至らしめるリスクを下げるための装置でした。
食品添加物も同様に、防腐・pH調整・酸化防止などを通じて、
「今日・今週に起きる致命的な事故」を大幅に減らしてきた役割を持ちます。
4. 「わずかな発がんリスク」と「生存人数」の比較
ここで重要になるのが、視点の置き方です。
- 高齢期における発がん率がわずかに上昇する
- その代わりに、何億人もの人が飢餓や食中毒から解放され、50〜70年生存できる
この二つを比較したとき、人類全体の平均余命を最も伸ばす選択はどちらかという問いになります。
20世紀の人類は、事実としてこの問いに答えを出しました。
化学肥料、農薬、食品添加物、保存技術を受け入れ、「不完全でもよい安全」を大量に供給したのです。
その結果、数十億人が生存圏に入りました。
がんが社会問題となるほど人が長生きできるようになった、という逆説的な側面も見て取れます。
5. 「自然=善」「健康=絶対」という考え方の限界
反農薬・反添加物・過度な自然志向の最大の問題点は、
個人にとっての最適解と、社会全体にとっての最適解を混同しやすいことにあります。
無農薬・無添加の生活は、
- 人数が限られている
- 高いコストを支払える
- 流通や保存を自ら管理できる
といった条件下では成立し得ます。
しかし、それを社会全体に適用すると破綻することは歴史が示しています。
文明とは、
完璧ではない安全を、安価に、大量に、安定して提供する仕組み
であり、「危険を完全に排除する思想」ではありません。
おわりに:健康は目的ではなく、手段です
健康はもちろん大切なものです。
ただし、健康そのものを目的化してしまうと、「生きる」という本来の問いから離れてしまうことがあります。
人類史の大半において、人々は次のように判断してきました。
「多少身体に負担があっても、明日死なない方を選ぶ」















